みなさんこんばんは。ディレクターのカズです。
今日は「自分の進路をどうするかを悩んでいるある選手」が、クラブハウスへ来てくれました。選手と保護者の方とスタッフ、5人で約一時間程いろんな話をしました。
この時期は小学生も中学生も次の進路に向けていろいろ悩む時期です。期待や不安、自分に対して何がベストなのかを悩んだ経験は、僕らスタッフも保護者の方もたどってきた道のりです。
僕の考えは、「自分の道は自分で決めて、その決断に自分で責任を取る」というスタンスです。これは育った家庭環境にもよると思いますが、僕がこのような考えになったのは両親の教育方針の影響だと思っています。自分のやりたいことを自由にさせてもらえるのだけれど、その責任は自分で取りなさいというスタンス。もちろん人として間違ったことはやってはいけないのだけれど、それ以外なら自分で決めなさい、そしてその責任は自分で取りなさい。
今では笑い話しですが、僕は中学3年時に担任の先生に「お前大丈夫か?」と言われながらも「海外へのサッカー留学」を一度決断しました。結局、私立高校からの誘いもあり進路の変更をしたのですが、母親はとても心配していたそうです。しかし「この子が自分で決断したならそれをサポートするしかない」と腹をくくって「この子はこの子の人生を歩むのだから」と思っていたそうです。
しかし、高校に進むと決めたのも自分。厳しい両親だったのでそこでの泣き言は一切許してくれませんでした。「お前が決めたのだから」。
この経験は今の自分にとってはとても役に立ってます。デザイン会社に就職するのも、フリーで働くのも、デザイナーを辞めサッカークラブで生計を立てると決心するのも、30代後半でスペインに留学するのも、全て「自分の意思と決断」です。「強い意志と決断」、そこにはものすごくエネルギーが必要なのですが、このようなスタンスだとマイナスなことが起きても不思議とそれをプラスに転換できます。
勿論、人生における価値観は人によって違うということも認識していますが、それは今の僕なりの答えです。
もし「自分で決めた道」なら、それは全てが正しいと思います。僕らは常に迷いながら「選択」して行きます。その「選択」においてこそ僕らは自由なのです。「自由と責任」、ありきたりな言葉ですが、自由に振舞うからこそ責任があるし、責任があるから自由にできます。
そして僕の好きな言葉は「自分の将来は自分の望んだものになる」というものです。
余談ですが、若い頃に読んだフランスの哲学者「サルトル」の影響が強いかもしれません。僕はある考えにどっぷりとつかるのではなく、その良い部分を自分なりに解釈して役立てる方ですから、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉は今の自分の考えの一部になっているような気がします。
きっと哲学という学問は一般的な社会には必要ないのですが、ラディカルに考えるとそのアイデアが社会にも応用できるというものかもしれません。
簡単に言うと、人間は何らかの使命を持って生まれてきたわけではなく、ただ単に生まれてきただけ(実存)。だから自由だけれど、その人生における選択には責任がある。だから人間は悩んで苦しんで、自分の選ぶべき道を選択しなければならない、というような感じです。
なんか硬い表現ですが、それは「楽観主義的」とも言えます。
「決断」は自由だしその責任もあるのだけれど、最悪うまく行かない場合は後に変更することもできるし、「逃げる」ことも時には必要。
日本になじみの深い仏教的な感覚かもしれません。
自分で決断し、自分で責任を取る。しかし、失敗してもやり直すことがいくらでもできる。この「何度でもやり直せる」ということは「若い世代の人たち」の特権です。
だから、自分の道を自分で決めて進んで欲しいと思います。
若い人たちは失敗しても何度でもやり直せるのですから。